歩道橋事故損害賠償請求訴訟 第一回口頭弁論での意見陳述より



 

 本気で「死にたい」と感じたことはありますか。私たち夫婦には、事故以来、何度もあります。あの歩道橋で、正にアリ地獄のような死の恐怖を体験し、目の前で、全く何もできずに、娘を死なせてしまいました。
この悔しさ、わかりますか。死ねば、あの世で新奈に会えるかも。死への恐怖はなくなりました。

 

 私たちの期待はことごとく裏切られました。あの時ピストルがあったなら……。何回拳を、歩道橋のアクリル板にぶつけたことか。警察はなんで来ない、仕事を忘れて花火見物なのか? 異常を知らせるすべはもう、花火以上の爆音で、アクリル板をブチ破るしかありません。銃声なら、110番にも応じない警察もスッ飛んで来る。そう思いました。

 

 そして、事故が起こった瞬間、私たちはあ然としました。まるで、待っていたかのように警察が来たからです。なんで今ごろ? 私たちはもう、警察と救急に文字通り“あとの祭り”を期待するしかありませんでした。 しかし、それすらも裏切られたのです。私が娘の命を託した機動隊の行動です。たった一人の赤ん坊も助けずに、いったい誰を助けようとしたのでしょうか。娘は何台もの救急車に見捨てられ、それでも必死に生きようとしました。事故からなんと1時間半後に、息を吹き返したのです。奇跡でした。でも、医者は言いました。「遅過ぎました」と。

 

 助かる命ですら救えなかった。この無念さ、わかりますか? 私たちが、どれほど自分たちを責めているか、わかりますか? 連れていったことを、現場にいなかった人から責められた時の悔しさがわかりますか?

 

 どうか、私たちと一緒に苦しんで下さい。どうすべきだったのか? 自分の問題として、どうあるべきだったのかと。どうか、それぞれの立場で、あるいは人間として、悩んでください。 「聖域なき捜査」とか「誠意」という体裁だけの言葉には、もううんざりです。過ちを責めるつもりはありません。どうか、今の自分たちの情けない姿に気付いて下さい。早く目覚めて下さい。死んだ子どもやお年寄りに対して、恥ずかしくない謙虚な反省。今、それを見せる時です。

 

 私は司法の独立を信じています。

多田新奈の父

 

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